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10年前を振り返ってみる。 [その他]

 今日はあの東日本大震災から10年。その時を振り返ってみます。当時、私は某企業のK事業所に勤めていました。仕事はその事業所の施設管理・維持・インフラ供給の責任者でした。
 その事業所はまだ発展途上で新棟の建設もしていましたし、私の部署のオフィスも他部門の一部を間借りしてるような状況でした。そんな中、あの瞬間がきました。隣の部署の蛍光灯が一列落下しました。私は「全員机の下へ!」と叫びました。

 揺れが収まった後から電話が殺到。直後に停電になったので事業所全体が機能しなくなりました。「オフィス入口の自動ドアのガラスが割れた」とか「壁にヒビが入って不安」とかそんな内容です。

 その事業所は会社の主力商品である精密部品の工場を併設していたので、事態は深刻でした。その製造装置はある一定の温度を保たないと精度が出なくなりオシャカです。一台数10億ですし、納期は半年の製造装置です。それがダメになったら企業としての損失は計り知れません。そのために非常用発電機を備えており停電後自動で発電を開始、冷凍機を運転して温度を保つようになっています。

 地震は15時ちょっと前でしたので、まだ終業時間ちょっと前。総務部門が本社と慌ただしく協議して終業時間になったら帰れる社員は帰すようになりました。そして帰宅困難社員への対応開始。飲み物・食料・防寒用のアルミシートを配布しました。


 大きな事業所ですので中央監視室なるところがあります。当然停電時でも機能するように非常用発電で電気が供給されています。
 私もそこへ行って情報収集。で福島の原発事故を知りました。「こりゃぁ~電気なんて当分来そうも無いぞ」と覚悟しました。それでも事業所内のインフラをなんとか少しでも確保しようと、まずは部下にエレベーターの会社に連絡させ復旧の要請。相手からは要請が多くいつになるか分からないとの返答でしたが、その日の遅く作業員が来てくれて復旧しました。これがこの後、とっても役立ちました。


 一向に電気が回復する気配が無く、このままでは非常用発電の燃料も枯渇かと覚悟していたとき、例の精密部品を製造しているお偉いさんが押しかけてきました。このままでは朝まで燃料がもたないと説明すると「なんとかしてくれ、車出すから燃料を買いにいこう」と。
 気持ちは分かりますが夜中だしやってるスタンドもないだろうし、時間900Lの燃料をどう調達するのか?そんな中、24時前に復電しました。奇跡です。


 その間も部下による事業所全体の被害の調査を指示。敷地内で新棟の工事をしてたことも助かって業者さんの力も借りて、とりあえず危険なところの処理を終えました。
 そんな時、部下から衝撃の報告が。例の精密部品を作っている工場は毒薬や毒ガスを大量に使ってます。それらを無毒化する設備が地下と屋上にあるのですが、地下は無事だったんですが屋上の設備が壊滅的。生産は止められませんので夜でしたがすぐさま業者に指示、復旧を開始です。
 震災は金曜日でしたが、土日でなんとか復旧。その時エレベーターが大活躍してくれました。足場や資材の運搬、これがエレベーターがなければ二日間での復旧はできなかったと思います。担当役員も心配して来ていましたが、復旧状況に安心したのか、すごく感謝されました。


 で、迎えた週明け月曜日。まだ寝ていた私の元へ最も頼りにしていた部下から連絡が。「大変です、電車が動いてません。出社できません。」とのこと。
 私は慌てて車で事業所へ。反対車線を横切って乗り入れたんで警備員さんからエラク怒られましたが、そんなことは言っていられません。出社してみると社員はチラホラ。


 その後は計画停電です。その事業所では4回ありました。一応予定は伝えられていますが実施か否かは分からず、実施される場合はなんの予告もありません。なので製造工程を可動することはできず、数週間は製造停止です。
 計画停電のたびに非常用発電機が稼働するので、だんだんと燃料が減って行きます。事業所の調達部門に催促しても入手困難との返答しかありません。なんで本社に掛け合って、この日何百L、次の日数百Lとか、まさに薄氷を踏む思いでした。


 被災から二ヶ月くらいかけて部下に休日出勤をお願いして、施設内全部の被害を調査。年内かけて修繕が完了しました。総額6000万円ほどでしたが本社が面倒見てくれたので助かりました。



 震災を通じてその人々の立場によるエゴもたくさんありましたが、一企業の社員として施設を守る私たちに協力して感謝してくださる場面もたくさんありました。


 以上、あの震災から10年、私なりの思い出を書かせてもらいました。
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